自民党の二階俊博幹事長の「マスコミは余すところなく記録を取り、一行でも悪いところがあれば首を取れと。なんということか」という批判に対し、野党は一斉に反発している。
また、石破茂元幹事長も「嫌なことも含め、全てを国民に知ってもらうためにマスコミが果たす役割は大きい」と指摘した。
これらの意見は報道の自由を強調し、一見尤もらしい。しかし、国民の多くがマスコミの姿勢に対し疑問を抱いていることも事実である。
実際のところマスコミは少しでも弱みを見せればハイエナのように攻撃し相手を再起不能にするまで徹底的に報道するが、強い相手に対してはその意向を忖度し報道を自粛し、国民に事実を伝えない、ということは既に国民の常識となりつつある。
マスコミの攻勢に対し何らかの反撃手段を有する者に対してはマスコミの取材姿勢も慎重だが、何の対抗手段を持たない者に対しては傍若無人にやりたい放題の取材攻勢をかけていることはテレビ等で見る通りである。そこでは相手の人格や権利に対する何の配慮も尊重もなく、報道の自由というマスコミ側の論理を振りかざしている。
芸能人の不祥事などで典型的に表れるが、同じような不祥事であっても特定の芸能事務所のタレントについてはマスコミの追求が甘い。また、森友学園問題でも籠池氏サイドへの追求は厳しいが、尤もあやしい財務省への追求は何故かなまぬるい。
芸能人に対するインタビューでは相手が言いたくない内容を強引に質問し、政治家に対するインタビューでは真摯に相手の主張を理解しようという姿勢ではなく、相手を刺激し怒らせ失言を引き出そうとする姿勢が見え見えである。
その結果出てきた刺激的なスキャンダルに国民は確かに興味を持つが、同時にそんなマスコミの姿勢に対しても国民は不快感を感じている。
つまらないスキャンダルや政治家の失言を追求するのに大上段に報道の自由を振りかざすことは、報道の自由の価値を落とすことである。
やがて、価値が落ち国民の信頼を失った「報道の自由」は例えば「人権の尊重」というような別の建前の下に制限されることになるだろう。
マスコミは報道の自由を安売りする前に、その自由を活用して行っている自らの取材や報道の姿勢を謙虚に反省すべきである。
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