者や近隣住民らが、アスベストによる健康被害の損
害賠償を国に求めた訴訟の控訴審判決が25日、大
阪高裁であった。三浦潤裁判長は、国の不作為責任
を初めて認めた1審・大阪地裁判決(昨年5月)を取り
消し、原告側逆転敗訴の判決を言い渡した。
被害者にとっては非常に気の毒な結果であり、この
判決に対しても批判的な論評が多い。
しかし、そもそも裁判所に対して過大な期待を抱き
すぎているように思う。
裁判所というのは別に正義の味方でも何でもなく、
所詮は法律に照らして妥当か否かを判断するだけ
のところである。
それが、法律と無関係な情状を過度に重視し、被
害者が可哀そうだからと、法律を拡大解釈して判決
を下せばその方が問題が大きい。
今回アスベスト問題は司法ではなく行政の問題であ
り、官僚が国民の犠牲よりも前例や財源を重視し行
動しているのであれば、これを是正できるのは政治
家だけである。
裁判所に政治的な判断を求めるのは好ましくない。
裁判所が判断すべきなのは明らかな法律違反や不
備があった場合だけである。
アスベスト被害者は裁判所よりも政権与党に働きか
けるべきであった。
政権与党が官僚の判断を是とするのであれば、それ
が日本国の判断である。
「不幸にして被害にあって命を落としても国に明確な責任
がない場合、不運と思ってあきらめてくれ」
これが今の日本国の基本的な姿勢である。それで納得で
きないなら、「例え国に明確な責任はなくとも、本人に責任
の無い事象で不幸な立場に追い込まれた国民についても、
国ができるだけのことをする。」という理念を持つ政党を政
権政党にしなければならない。
それが民主主義社会というものである。現在の日本は水戸
黄門が突然現れて理不尽に苦しむ国民を救ってくれる社会
ではない。
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